こんなお題が出たので、今日は私が電車のなかで経験したことを話してみたいと思う。
もう10年以上前になるけれど、会社帰りにいつもの路線とは違う私鉄に乗って友人の家に向かっていたときのこと。
電車の中は結構、混んでいて身動きも取れないような状態だった。いつもの路線はこんなに込まないのに…と思いながら、扉の近くにたっていると、近くにいた50代くらいの男性がなにやらブツブツ言いだした。
『おねえちゃん、あんたもうちの女房と同じだな。こんな時間までフラフラ飲み歩いてんのか?』
明らかに酔っぱらっている様子。そのおっちゃんが言った細かい暴言はもう覚えていないけど、延々と『女がこんな時間まで出歩いていること』に対して、ブツブツ文句を言い、おびえている私を見て楽しんでいる様子。
車内を見回すと、アメリカ人とおぼしき(沿線に米軍基地がある私鉄だった)若い男性たちもこちらを見てニヤニヤしている。助けてくれればいいのに…。
時間にしてそんなに長い間じゃなかったと思う。だけど車内が混んでいて、身動きも取れない上に、距離もかなり近い。体の向きを変えることも、顔をそむけることもできない。
何か言い返してつかみかかられたりしたら、どうしよう…そんな恐怖心で身動きもできずにいた。目的の駅までこのまま我慢しなくちゃいけないの…?という恐怖心と、周りにこれだけ人がいるのに誰も助けてくれない失望感に涙が出そうになった、そのとき。
どん!
という音がして、誰かが私とおっちゃんの間に腕が差し込んだ。扉ぎわだったので、今風にいうと、おっちゃんが壁ドンされたみたいな感じを思い浮かべてほしい。
見ると、スーツを着た40代後半くらいの男性だった。ガタイがいいわけでもなく、眼鏡をかけていて、ちょっとくたびれた本当にどこにでもいる普通の日本のサラリーマンといった感じの人だった。
今でもはっきりとその時の様子と、その人のせりふを覚えている。その人は自分の女房がどうこうと言い続けるおっちゃんに向かって断固とした口調でこう言ってくれた。
『この人に関係ないでしょう』
そして、私とそのおっちゃんの間に入り、身を挺してかばってくれたのだ。酔っ払いはその後もムニャムニャ言い続けていたが、男性の毅然とした態度に恐れをなしたようで、しまいには黙りこんだ。
その男性は私が降りるひとつ前の駅で降りた。ありがとうございます。と頭を下げると、その人は背中越しに軽く会釈をして恥ずかしそうに立ち去った。
住宅街に近い静かな駅で明かりも少ないようなホーム。ちょっと疲れたサラリーマン風の男性の後ろ姿を、私は一生忘れないだろう。
そして今でも、その路線に乗るたび、彼が降りた駅の近くを通るたびに思い出す。あの人は今も元気にしているだろうか。今、会っても、あの人だと分かるはずもないけれど、それでも『あの時は、ありがとう』と言いたい。いつもそんなことを考える。